GoogleMapsストリートビューはキモい

このはてダには自分の意見や感情を載せないようにしているのだけど、今回は特別にGoogleMapsのストリートビューについて思ったことをつらつらと書いてみる。誰か推敲してくれ。
スタンスとしては「技術的にもネタ的にもおもしろいけど冷静に考えたら気持ち悪いからやめれ」という感じ。はい、おまえが言うなですね、わかります。ちょっと良い子ちゃんぶってみるわ。

ストリートビューはキモい

撮影・公開を、そうされることを前提とされていない場所に対して行い、さらには住所に紐付けてしまったことがキモい。

もう少し言えば

観光地や公共施設や駅前や大通りのような公共の空間とは違って、民家や住宅街やそれらの周辺の街路・路地は撮影・公開を前提としていない。それを撮影して地図に関連づけて公開するというのは如何なものだろうか。

かみ砕いて言えば

好きなあの子の住所を学校の住所録でゲットできれば自分の家からバレずにあの子の家の外観を見ることができて、もしかしたら幸運にもあの子やあの子の洗濯物が見られるかもしれない、ということが実現しかねないことがキモい。

一言で

Google自重

公私の境界の問題〜>「生活空間と公共空間の境界線は引けない」

公共空間と私的空間の線引きは難しい。見る立場によって変わるかもしれない。だが、平均的に見た上で閾値を設けることもできるし、優等生的には少しでも誰かの私的空間を侵害している可能性があるなら公開をやめるのが良いのではないだろうか。厳密な線引きができないことが全てを公開する理由にはならない。

価値観の問題〜>「自分の家は公開されても別にいいよ」

民家や住宅街やそれらの周辺の路地は撮影・公開を前提としていない、といったが、これは僕の価値観であり推測である。恐らく大半の人は自分の自宅の写真が住所に関連してWeb上で不特定多数の人間に公開されることを想定していないだろう、という。想定していたとしても、自分が退居することになった後の不動産屋のWebサイトぐらいだろう。
この点に関しては価値観の問題なので全ての人から同意が得られるとは思わない。価値観は公理であり、それが違えばいくら論理的に話を進めても結論は合わない。

現実における非公開〜>「いやなら隠せばいい」

インターネットの世界とは違って現実世界では非公開を選択することは不可能に近い。地上に家を建てれば家は外から見えてしまうし、外出すれば他人に姿・顔を見られてしまう。ここから「だから撮るな」という意見と「だから撮ってもいい」という背反した意見が生まれる。これも前項の価値観の問題だろう。しかしGoogleが「いやなら隠せばいい」と言うのはやめたほうがいい。

障壁による保護〜>「どうせそこに通りかかれば見えるものじゃないか」

そこに通りかかれば見えるのは当たり前なのだが、その場所に行って写真を撮るということがどれほどの物理的・労力的・金銭的・心理的・倫理的障壁を伴っているだろうか。なかなか高い障壁だと思う。これらの障壁によって今まで自重され守られてきたものが、ストリートビューによってその障壁を取り払われ暴かれてしまったのだ。これはその場所に行けば公道から見えるんだから良いということとは別の問題だろう。その点に関しては後に書きたい。

注目の重心〜>「街のスナップ写真もキモいのか」

街の風景を載せた雑誌・ブログで、民家や路地を撮影した写真があって、もしかしたら撮影した場所も書かれているかもしれない。でもそれはまず風景が先にあって、場所は後付けされた情報でしかない。これに対して、ストリートビューはまず場所があって、そしてそこの風景を写真として公開している。この注目の重みの違いは大きい。

道徳の問題〜>「公道から撮るのは法的に問題ない」

法的に問題なければ何をやってもいいというのは如何なものでしょうか。僕が言うのも何ですが。

資料としての価値〜>「日常風景を記録した重要な資料だ!」

(日常風景というより町並みだけど)その通りである。後世のためにできるだけ多くの歴史資料を残していくことのは賛成できる。でもこの現在に全世界にこのような形で公開する必要があるのだろうか。Webで公開するにしてもせめて100年待って欲しい。

情報格差の問題?〜>「削除申請すればいい」

ストリートビューの存在すら知らない人はどうすればいいのかとメディアからの質問にもあった気がするが、彼らを情報弱者として虐げ晒し者にしておくのは如何なものでしょうか。

新技術の実験〜>「新しい技術、いいじゃないか」

ストリートビューの技術を公表したいだけなら自社の敷地とかオフィス内を対象にしてやればいい。うん、GoogleOfficeViewとかいいな。

技術者の責任〜>「要は使う人の問題」

技術者が使用者に責任を押しつけるのは簡単なことである。技術は様々な障壁を軽減し無くしてきたが、我々技術者はその技術が障壁をなくすことで社会に対してどのような影響を与えるのかを考えて技術を生み出さなくてはならない。
このことは古くはミサイルや原爆といった兵器、最近の身近なものではファイル共有ソフトや動画投稿サイトのようなものにも当てはまるだろう。つまるところ幾年と繰り返されてきた技術と倫理の問題であるのだが、大きな特徴は一企業がそれを行っている点である。
しかしGoogleほどのイデオロギーを持った大企業になると、逆に社会・倫理を変えるように狙っている気もしてくる。

言いたいこと

なんか話が逸れてきたので初めの主張に戻ってみると、撮影・公開されることを前提とされていない場所の写真は全部削除すればいいと思うよ、ということです。